「一剣心裏を表す」

大学の稽古に久々にでました。ココのところしばらく仕事にかまけていたので,身体がなまってしょうがない。久々に行った稽古は4年生が就職活動でほとんどいないため,人数も少なく寂しいかんじ。毎年この時期はそうなんだけど。

先生・OBの参加者は,青木先生,大友先輩,岡村先輩,後藤先輩,清水君。けっこう若手の先輩が参加し,活気づいた。右手首の腱鞘炎のことがあったので,稽古に絞った。小手を打つときには結構右手を使っていたようだ。痛かったから。たまにこういう怪我も無意識に普段やっている悪い癖を発見するにはいいかもしれない。

稽古後,青木先生の話の中で「一剣心裏を表す」という言葉が出てきた。これは勝海舟が言った言葉で「人の本当の性格は1つの打突でみえるものだ(→これを出ないように訓練するのが稽古)」のようなことをいっているそうだ。なかなかうまいことを勝海舟はいったな。こうなると彼はどんな人だったのか興味がわく。調べてみた。教科書にのるだけあってなかなかがんばりやさん。勉強になりました。勝海舟の若い頃の写真は,渡邉先輩に似ている気がした。

==勉強==
勝海舟(1823~1899)
江戸の下級旗本の子として生まれた。小さいときから武術をこのみ、島田虎之助について 剣道を学んだ。21歳のとき、蘭学の勉強をはじめたが、オランダ語の辞書が買えなくて、 赤城という医者にたのんで、その辞書をうつさせてもらった。そのとき、2冊うつして、1 冊は売って学費にした。

やがて、海舟は自分で塾を開いて、蘭学を教えるようになった。33歳のとき、幕府は長 崎に海軍伝習所をつくり、海舟を生徒のひとりに選んだ。教官はすべてオランダ人であった が、海舟は航海術などを熱心に勉強した。

やがて、幕府はアメリカと通商条約を結ぶことになり、使節をアメリカへ送ったが、この とき海舟は咸臨丸の船長になり、はじめて日本人だけの力で太平洋を渡った。1860年のこと である。

1868年、官軍が江戸にせまり、江戸城を総攻撃しようとした。そうなったら江戸じゅうは 火の海となってしまう。心配した海舟は、官軍の参謀・西郷隆盛と会って、江戸城を平和に あけわたす約束をした。江戸が戦争で焼かれるのをまぬがれたのは、このふたりの力といわ れている。その後、海舟は新政府にもつかえ、76歳まで生きた。